HOME | 結婚ゼミ | |||
文鮮明先生とはどんな方か?
一部のマスコミ関係者達は、文鮮明先生のことをあたかも悪者のように批判していますが、果たしてどこまで理解した上で評価しているのか疑問とするところです。 文鮮明先生については原理講論を読んで下さったり、講演文を読んで頂ければ解って頂ける部分も多いでしょうし、その人となりを証す書物や文章もたくさんあります。 ここでは私自身が直接お会いした文鮮明先生を紹介してゆきたいと思うのです。私の表現力ではあまりにもふさわしくありませんが、皆様が文鮮明先生を理解するのに少しでもお役に立てれば幸いです。 アラスカでお会いした文鮮明先生私がこの文章を書いているのは1999年10月のことです。この時点で文鮮明先生は79歳であり、お孫様達を含めて40名以上の大家族となっています。外見はかっぷくが良く、どちらかというと実際のお年よりも若く頼もしい感じです。「正しい方向に進めば英雄に、間違った方向に進めば逆賊になるだろう」と文鮮明先生が幼少時代に村中で噂されていたというのも頷けることです。 さて私は1992年の合同結婚式に参加した翌年の8月に、再度文鮮明先生とお会いすることになりました。合同結婚式の時には遠くから御夫妻を眺めていただけという感じでしたが、この時は目の前(手を伸ばせば触れてしまうほどの距離)でお話を聞く機会が何度かありました。
場所は、驚く事なかれ、アラスカでした。文鮮明先生が直接フィッシングの訓練をして下さるというツアーがあったのです。期間は現地で5泊ぐらいだったと思います。時期は夏でしたが結構雨が多くてずいぶんと涼しいので、私は防寒着が必要なほどでした。 天候不順で期間中に数回しかフィッシングはできず、なんのためフィッシングツアーに参加したのかという感じですが、当初からの目的が文鮮明先生にお会いするというところにあったのです。 ツアー期間中は、昼間はフィッシングのための準備をしたりして過ごしていました。フィッシングをするときはバスで近くの海や川まで行きました。そして夜、または早朝に文鮮明先生が睡眠時間を削りながら、寸暇を惜しんで直接にメッセージを語って下さったのです。
ある時、私は広い講堂の一番前に陣取って座っていました。なんとしても内面的な飛躍をしたいと感じていたときだったのです。 文鮮明先生は夫婦の愛のあり方や親子の愛、兄弟姉妹の愛の本然の姿などを話して下さいました。本来それらは本当に神聖であり、今の現実世界では知る術がなかったと実感したものでした。 途中、文鮮明先生が講堂にいる参加者達に対して「大学を卒業したもの手を挙げなさい」と言われました。私は1mと離れていない目の前で大きく手を挙げてしまったものですから、突然私に質問が投げかけられました。それは夫婦の愛についての内容でした。 私があまりにも小さく返事をすると、念を押されて確認させられたのです。私には雷に打たれたような一瞬の出来事でした。 “ああ、この方は私のすべてを知っておられるなぁ・・・”という思いと“恥じ入るスキさえもなく言い訳の術もない・・・”そんな状況が交錯し、私自身の愛に対する観念の薄っぺらさ、既成概念が私の中で払拭されるような大事件になってしまったのでした。 その言葉や、経験はなんとその後の生活の中で、もっと深まり大きく膨らんでゆくのでした。
このアラスカでの出会いは私にとって信仰の原点になっていると感じるのです。この時の体験以降にも文鮮明先生と直接お会いする機会に幸いにも恵まれたのでした。 済州島でお会いした文鮮明先生
アラスカのツアーに参加したその年(1993年)の12月にも、今度は韓国・済州島にて先生とお会いする機会に恵まれました。主に日本の女性が参加したセミナーが始まったときのことです。このセミナーは3泊4日の日程がワンセットで、それが数か月間にわたって休みなく続けられました。 先生は1920年生まれですから、当時73歳でセミナーを開かれていたことになります。
朝から晩までその全てに登壇されて、先生は真理を語り続けてくださったのでした。73歳にして千人以上もの参加者に向かって講義をされていたわけですから、そのご苦労は相当なものであったはずです。 しかし、時には「メシヤってなにー?統一教会のめしや、飯屋の親父ですよ。本当ですよ。」などと冗談も交えられながら、親身になって多くのことを教えてくださったのでした。私は再び先生の姿を間近にし、語られる姿、語られる一言一言に、奥深さや愛の世界を感じながら、そのお人柄にふれることができたのです。
|
|||